今や起業家としての顔になっているキングコング西野亮廣さんには、敏腕プロデューサーの田村有樹子さんの存在がありました。
田村有樹子さんは、同志社大学を卒業したエリートで、ADや、ご自身で会社設立など、素晴らしい経歴の持ち主です。
田村有樹子さんの経歴についてまとめてみました!
田村有樹子の経歴

名前 | 田村有樹子 |
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生年月日 | 1980年7月24日(2021年現在40歳) |
出身地 | 京都 |
前職 | オフィス・トゥー・ワンでAD |
家族 | 父、母、弟 |
現在の肩書はプロデューサーで、キングコング西野亮廣さんのスタッフ兼マネージャーをしています。
田村有樹子が西野亮廣と知り合ったきっかけは?
田村有樹子さんが西野亮廣さんと知り合ったのは、「ガリゲル」の番組です。

2010年4月から始まった「ガリゲル」で、番組プロデューサーとして西野亮廣さんとかかわりました。
そして、2018年秋ごろに西野亮廣さんから、スタッフになってほしいといわれていますが、2回断ったとか。
その理由に、
西野亮廣のスタッフになるのはどうしても嫌だった。いや、怖かった…のかな。
と語っています。

エリートまっしぐらのように走ってきた田村有樹子さんなので、てっきりすぐに受けるのかと思っていましたが、
真剣に仕事に向き合い、成功も失敗も味わってきたからこそ、信頼できる西野亮廣さんの仕事は失敗したくなったようです。
15年近くテレビ番組のプロデューサーを。大好きだった番組 #ガリゲル が終了したのを機に一旦番組制作という仕事をやめてみた。そしたら、ドキュメンタリー、CM、MVの仕事が次々と。そして何故か私がハブで、ADがやるような細かい連絡まで。#やめたのはテレビ制作じゃなくプロデューサーだったんじゃね
— 田村有樹子 (@tamuyorke) January 25, 2020
2018年のリベンジ成人式の発起人
2018年1月に、着物レンタル会社「はれのひ」会社が倒産し、当時成人式間近だった女性たちが成人式を迎えられないことになってしまいました。

はれのひ騒動を知った田村有樹子さんが、
はれのひが倒産して着物着れないなんてかわいそうと言っているけど、誰も立ち上がらない
と思い、西野亮廣さんにLINEしたところ、西野亮廣さんから
「成人式やりましょう」
と提案されたようです。

クルーザーを手配したりして行動を起こされ、リベンジ成人式を成功へと導いていきました。
田村有樹子の現在はオンラインサロン主宰
田村有樹子さんは、2019年4月からオンラインサロンを主催されています。
名前は、タムココサロン。

現在会員数は2700人になり、田村有樹子さんが関わってる西野亮廣さんの裏側をシェアする目的だったようですが、最近では田村有樹子さんの脳の中身をシェアするサロンとなっているようです。
忘年会は、
「忘れられないような馬鹿みたいな事をしたい」
(2019年末)
をコンセプトに、ライブハウスZepp大阪ベイサイドを貸切る気合いのいれようです。
オンラインサロンでは、西野さんの暴露話が飛んでいそうですね笑
田村有樹子は小学生のときいじめにあってた
小学生5年生のとき、いじめられていたことを告白されています。
いじめの原因は、田村有樹子さんがある同級生の成績を追い抜いてしまったからだそう。
リーダー的存在の同級生を追い抜いてしまったことで、クラス中からいじめを受けるはめに。

クラスの友達は、誰も止めてくれなかったとか。
その結果、小学校は不登校ぎみになったようです。
しかし、田村有樹子さんは元々性格が負けず嫌いだったこともあって、環境を変えるために、奈良県の私立中学を受験されたようです。
田村有樹子の中学・高校時代
田村有樹子さんは、中学時代、テニス部に所属していましたが、テニス未経験だっため、部員の中で一番へたくそだったようです。
下手くそな自分を克服するため、こっそりとテニススクールに通いました。
と、テニスが上手くなりたい理由の他にも、
テニススクールのコーチが好きなタイプだったので、褒められたい一心だったようです。
上達するまではと、修学旅行まで行かない徹底ぶりだったそうです。
そのおかげもあってか、メキメキ上達され、奈良県でシングルス5位まで昇りつめれました。
田村有樹子の大学は同志社大学
田村有樹子さんは、2000年4月に同志社大学に入学されています。

同志社大学は偏差値60~65の高学歴の部類に入りますよね。
同志社大学出身の芸能人は多いです。
しかし、高校のときテニスに夢中になったことで成績が悪く、当時の大学受験を控えていた田村有樹子さんの偏差値は36だったようです。
担任からも「無理」だといわれましたが、親を説得し一浪して同志社大学に入学されたとか。
中学からの夢が同志社大学と決めていて、同志社大学以外は考えていなかったようです。
田村有樹子の大学卒業後
大学卒業後は、オフィス・トゥー・ワンに入社されました。
始めた受け持った番組は、テレビ東京の「所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物伝」。

ところが、一年半ほどオフィス・トゥー・ワンで働いたとき、真正面から意見を言ってしまう田村有樹子さんの性格が会社と合わなくなり、24歳で退社を決意されます。
24歳で独立し制作会社設立
田村有樹子さんは、24歳のとき独立し、自身で制作会社を設立されました。
田村有樹子さんの肩書は、プロデューサー。
会社を設立するも、大きな仕事はなく、小さな仕事を数多くこなしてきたようです。
その中で、オリエンタルラジオと仕事をするようになり、会社は軌道にのるようになりました。

会社を設立して10年ぐらいたったとき、自分の為に生きたいと考えるようになった田村有樹子さん。
その理由に、田村有樹子さんの頭の円形脱毛症と、ある社員が亡くなったことがきっかけです。
体がしんどいから会社を辞めたいとかの理由ではなく、
一度くらいは自分のために生きてもいいじゃないか
と考えるようになりました。
共同経営者にもその旨伝え、自身の会社は
その後、知り合いの音楽プロデューサーからの縁があり、バーのママになっています。
田村有樹子さんは、会社を解散後、どこかの会社のプロデューサーにはなりたくなかったと語っています。
田村有樹子は35歳でバーのママに
水商売はまったくの未経験だった田村有樹子さん。
35歳からバーのママをこなし、会社は解散しましたが、キンコン西野亮廣さんとの番組「ガリゲル」は続いていたので、ママをやりながら、プロデューサー業をこなしていました。

講演会の仕事も入っていたようです。
そして、一年過ぎたころ、スナックのママという箱に縛られてるなと感じ、テレビ業界から遠ざかっていると思ったことから、スナックのママを引退されます。
夜の仕事があると、誘いがあっても行けなかったことが多かったようです。
仕事仲間でもあり、飲み仲間でもある西野亮廣さんのことを田村有樹子さんは、
西野亮廣がどれだけ努力家でどれだけシビアでどれだけ戦っている人間かをよくわかっている
しかし、西野亮廣さんは、2度断られても、3回も田村有樹子さんを誘い、口説き落としたのです。
田村有樹子さんと西野亮廣さんの信頼関係が素敵で、これから一生付き合っていく仲間の存在は大切ですよね。
誰と始め、誰と終わり、誰と始めたいか。
つまりは、自分は誰と一緒に居たら、
めっちゃ楽しくって、めっちゃ笑って
今年も生きてて良かった!幸せ!と思えて、
また来年もやったるで!!って思えるのか。
だけど、私にとっての「誰」であって
相手にとっての「誰」も有るはずで。
(Facebookから)
自分より、人を幸せにすることを大切にしてきた田村有樹子が垣間見得ました。